「ガン勝利者25人の証言」より抜粋
もう一つのゲルソン療法・レトリル(リトリール・ビタミンB17)療法
ゲルソン療法として知られているこの方法には、通常の食事療法の他に、コーヒー浣腸に代表される医学的な治療法が含まれています。
ゲルソン博士は、ガン治療のために食事以外の医学的な療法を開発しました。
医学的な治療法では、カリウム、ルゴール、甲状腺末、消化酵素、ビタミンB
3、ビタミンB12、ビタミンB17、ビタミンC などの薬を使用します。食事療法とこれらの医学的療法を組み合わせて行うことが、特にガンの進行した患者さんには必要でしょう。
アメリカでは、ビタミンC点滴療法が普及している関係で、ゲルソン療法でも併用されるケースが多いようです。
もう一つ重要なものが、レトリル(ビタミンB
17)です。私たちの若葉クリニックでは、ビタミンCもビタミンB
17も、日本では入手できませんので輸入して使用しています。「ゲルソンがん食事療法」より抜粋
ネバダ州レノのダグラス・ブラディ医学博士は、次のように述べている。
「レトリルを使っている患者を数年間観察してみて、これには毒性が無く、明らかに役に立つものだということが分かった」
ロンドンのガン専門家エティエン・カルブート医学博士は、次のように述べています。
「アミグダリンは、どんなガン治療においても使う価値がある。水溶性で、ガンに対して有効性があることは既に実証済みだからだ」
レトリルは、再発、転移ガンに対して強い効力を持つようだ。肺転移においては、60%の減少が確認されている。
また、別の研究によると、乳ガンと骨ガン患者に対する延命効果があった。
レトリルを補給する確かな理由は、この40年間ガン患者に対して使った結果、治療での成功を得てきたからだ。
「ガン勝利者25人の証言」からの抜粋
M・N・ポーター夫人:1969年、体の右側の腰と大腸の間に腫瘍ができ、右脚にも転移が始まり、ひどい痛みが続いた。
手術、抗ガン剤、放射線治療は一切受けなかった。
クレップス博士(レトリル研究のパイオニア)のもとで、レトリル治療とレトリル食を開始す。
博士が93才で引退後は、博士の紹介でメキシコ・ティハナ市のコントレランス博士にかかった。
レトリルに関する本を読み、レトリルを使っている患者たちとも交流したが、彼らが通常の医者に末期ガンと診断されながら、
レトリル治療で普通の生活をして元気に生き続けていることに心を動かされた。
また、私はレトリル食と共に積極的な考えと、信仰を持ち、祈ることで得られる精神的な平安が極めて大切と気づいた。
1972年、アメリカで2人の医師の診断を受けたが、ガンは全くなかった。
バーン・S・マイヤーズ:1973年、手術不能の前立腺ガンで、半年後には背骨や肋骨にも転移が見つかった。
1973年3月、手術不能で、両側の睾丸の摘出術だけを受けた。
放射線や化学療法、本格的な手術などの通常療法は一切受けなかった。後で、睾丸摘出術が全く根拠のないものだと分かった。
尿が出ない、背骨が痛いなどいろいろな症状があったが、コントレラス博士の治療を受け始めると10日間で症状は消えた。
この療法を選んだのは代替療法を調べ、これが有効な方法と自分で判断したからだ。
私はコントレラス博士に命を救われたと思っている。博士の治療は4〜5年続けた。
彼は「ガン克服のための最大のポイントは?」という質問に
「自覚と自分のことは自分が責任を持つという態度だ」と答えた。
ヘレン・M・カラン:1979年、55才の時、顔に悪性黒色腫ができ、切除術を受けたが既に肝臓にも転移があり、余命数ヶ月と宣言された。
同じ頃、卵巣ガンで手術はしたが医師に強く勧められた抗ガン剤を拒否していた親友のローラが、メキシコで治療を受けていた。
ローラは、私にも同じ治療を受けに来いとすすめたが、私はまだ通常の医者のいうこのに縛られていた。
そこで「あなたのしている治療はインチキ療法だ。そんな療法があるのならアメリカの医者もやるはずだ」と答えた。
数日後、かかりつけの医者が肝臓には依然として2つの腫瘍があると言われた。
このころには歩くのもやっとで、食欲もほとんどなかった。
そして突然、メキシコのティハナへ行って、ローラと同じ療法を受ける気になった。
少なくとも同病相憐れむ仲の人々がそこにはいて孤独ではないと思ったのだ。
1979年3月12日、ティハナへ行った。
医者が待っていてくれ、私は彼に肝臓のガンが治せますかと尋ねた。
彼は私にとってこれ以上にない言葉で答えた。「肝臓は簡単ですよ」
この人物が私たちが前から言い続けてきたインチキ療法師であろうがなかろうが、
いずれにせよ陽気な声のこの背の高い男は奇跡を行う人間ではあった。
私はレトリルを15gとビタミンC25g、それにいくつかのビタミンB群を含む点滴を3時間受けた。
生の果物と野菜の皿が夕食に運ばれてきた。
多くの人が私にあなたが治ったのはその療法を信じたせいだというのを、これまで繰り返し耳にしてきている。
しかし、これは事実ではない。少なくとも当初に限っては事実ではない。
ティハナへ行く時、私は自分の考えもしない奇跡を期待していたとはいえ、
自分はインチキ療法に宗旨がえするのだという気持ちで行ったのだ。
2日のうちにかなり気分良くなった。食欲も戻ってきて食事と一緒にとる酵素のおかげでガスの出る苦痛もほとんどなくなった。
たった3日後に夫が見舞いに来た時には、夫と一緒に400
m離れた公園まで歩くことが出来た。私は自分が生きつつあるのを知り、だれがインチキ療法師なのかも分かった。ティハナの病院には2週間いた。
退院1年後の肝臓のCT検査では肝臓の腫瘍は2つとも消えていた。
この11年間は私たち夫婦にとっても、結婚生活でいちばん幸福な11年間だったとさえいえる。
あなたも生命や健康はいつまでもそのままつづくものではないとは考えていよう。
しかし、私は自分が食事療法の食事を守り、レトリルをとっている限り、
自分の知っているほとんどの人より自分が長生きできるのはまちがいないと感じているのである。
ドナルド・ファクター:1986年11月、肺ガンの末期で肝臓、背骨にも転移があった。
「通常療法は非常に有害な副作用がある」と、診断した医者にいわれたので
すぐ海を渡ってメキシコのコントレラス病院へ行った(ファクター氏はイギリス人)
コントレラス病院では、私は背骨の腫瘍に2週間放射線治療をつづけ、4週間おきに4日間続ける抗ガン剤治療を6コース受けた。
コントレラス病院の治療は非常に効果的だったと言うのが結論である。
化学療法も放射線療法も受けたのだから、副作用もなく完全に無害であったわけではない。
しかし、ここの病院では健康的な食事、体の解毒プログラム、レトリルの投与、ビタミンCなどといった全体的なプログラムの中で
化学療法や放射線療法を行うので、有害な影響は最小限に留まるようになっている。
C・E・イーストマン:1979年5月、前立腺ガンの診断を受けた。
手術をするにはもう遅い、手術で生き延びる可能性は半々、しかし、治せるガンなので放射線治療をとすすめた。
だが、「治せる」とはどういう意味かと質問しても明確な答えはできず、放射線がダメだったら、
放射性物質を患部に注入する手もあるとかいった答えしかしなかった。
私は確信を与えてくれない医者に命を預ける気にならず、その晩、妻と二人で
ガンになった知り合いのことを思い出す限りリスト・アップした。
30人いたが、だれも5年以上は生きていなかった
(ただ、しばらくあとで気が付いたのは例外が2人いて、この2人だけは5年以上生きた。
一人は肺ガンでたばこをやめた人、一人は乳ガンで放射線も抗ガン剤もやらなかった人だった)
これで、私たちはガンは結局、死の病で、ひどい苦痛を経て死ぬのだと知り
「アメリカ医学協会AMA公認の治療などいらない」と言った母親の言葉をいやでも思い出した。
翌日、私は「ガンになってよかった」というガン克服体験記を見つけた。
もう1冊の「私はこうして自然な療法でガンを治した」とあわせて私はよく読んだ。
両者とも食事を根本的に変えることや、AMA公認の治療を受けないことを基本としていた。
私は両書の熟読から自分も医者の治療はお断りといえる確信を得た。
神は私にガンに対する回答をこうして用意してくれたとしか思えない。
私は本がすすめていたリチャードソン博士にかかることにした。
博士は「あなたは通常療法を受けなかったので、私の治療にいい反応を示すだろう」といった。
博士の説明は私に確信を与えるものだったので、この治療を受けることにした。
博士は私に食事を根本的に変えさせ、それと同時に20日間の静脈注射と筋肉注射をした。
これをやると1週間で別人のようになり、私は何年来なかったほど体調もよくなった。
当初リチャードソン博士の治療を受けていた。
博士はその時カリフォルニア州で開業していたが、すぐにAMAの弾圧でネバダ州に移った。
だが、ここでも弾圧を受け、短期間で開業不能になってしまった。
その時、博士は私にカルテを全部渡してこう言った。1982年1月のことでした。
「これを持ってメキシコのコントレラス博士のところへ行きなさい。あなたの治療はうまくいっていて治癒も近い」
つまりイーストマン氏が受けていたのはレトリル療法だったわけである。
イーストマン氏は6年後自分のX線写真を持って、最初に診断を受けたガン専門医を訪ねて以下のような議論をした。
なお、この専門医は同氏が回復したことに`大変不機嫌だった’そうです。
イーストマン氏「私の知っている30人の実例はみな死んだ。AMAの治療は有効でない」
Dr 「私は40年間ガン患者を見てきている。あなたは私以上の経験があるというのか。AMAの治療法は3人に一人は有効だ」
イーストマン氏「私の義姉は例外的に6年生きた。しかし、その後で肺に水がたまって悲惨な死に方をした。
死亡診断は肺炎でガンではなかったので、こういう例もAMAは治療の成功例に入れるが、これが成功といえるとは思えない。
私は今、非常に健康で、いい人生を生きている。
もし今後ガンで死ぬとしてもこのいい生の質(クオリティ・オブ・ライフ)を保証してくれた自然な療法を選んだことを後悔する理由はまったくない」
ここにはよく議論される「生の質」の問題が出てきている。
自然な療法はたとえ患者を救えない場合でも、切った、はった、焼いた、毒薬を浴びせたという手術、放射線、抗ガン剤の治療にくらべ、
比較にならないほどいい生の質を保証することだけはまちがいない。
さっきの議論のしめくくりとしてイーストマン氏は医者にこういったと言う。
「ビタミンCが壊血病に有効と専門家が認めるまでに260年かかった。
AMAが食事やビタミン類などの対ガン効果を認めるまでにどれだけ時間がかかると分からない。患者はそれを待ってはいられない!」
G・L・ラザフォード:1971年12月、大腸にガンが発見された。他に2カ所にもガンが広がっていることが、あとで発見された。
病院では手術をすすめ、私が他の方法はないのかと問うと、外科医は「ない」ときわめて断定的に答えた。
しかし私は通常の医療独占体制が指示する手術、放射線治療、抗ガン剤を選ばず、
かわりに、全体的で、ホリスティックで、栄養を重視し、神の創造物たる人間を本来の健全な状態に戻す医療を選んだ。
この医療はアメリカの医療独占体制は認めていないが、他の28の国では盛んに行われている医療である。
私が選んだのは、きわめて厳格な食事療法に自然な栄養物質であるビタミン、ミネラル類、酵素類を追加し、
さらにレトリルを加える療法だった。
もし私が通常の医療を受けていたら70年代半ばには死んでいただろう。
私のようなケースで7年以上生きる確率は十分の一と統計は示している。
私が自然な医療を選んだのは近所のある女性の例を知っていたからだ。
彼女は六十年代に21才でリンパ腫ですべての通常の療法を受けたが、
最後には担当医にもう家に帰って好きにし、身辺整理をするほうがいい、打つ手がないと宣告された。
そこで、自然な療法を受けるため、彼女はアメリカを捨て、両親とメキシコへ渡った。
彼女の状態では何も失うものはもう残っていなかったからだ。
彼女は元気で帰国して、自分の体験を話してくれた。私が今日元気なのはまさに彼女のおかげである。
彼女は体中にガンの結節や腫瘍ができ、小はマーブルケーキ大から、大はレモンやオレンジの半分の大きさのものが
沢山できていたのに自然な療法で克服したのだった。彼女は20余年後の今も元気である。
ガンの診断を受けて帰宅した後、私と妻は彼女を訪ね、2時間あまり話を聞いた。
そして私にはもう失うものはないので、彼女が命を救われたメキシコのコントレラス博士に電話し、同じ月の21日に予約をとった。
博士の治療により3週間で、小さなぶどう位に退縮したし、腰の骨あたりなど2カ所の痛みも消えた。これが私の治療のスタートだった。
今の私の考え方では、ガンは本質的には栄養法の権威が指摘するように、主に肝臓と膵臓の機能不全で起きる病気である。
しかし、通常の医療は腫瘍そのものだけに対処して、ガンそのもの、つまりこの機能不全を治療するものになっていない。
腫瘍という症状だけに足をすくわれていて、原因には盲目なのだ。
このラザフォード氏は、それまでメキシコからアメリカへ輸入することが禁止されていたレトリルを、
合法的に輸入できるようにするための裁判で1977年に最初の勝訴を勝ち取った人物です。
F・G・ウィリー:1978年7月、大腸癌が見つかり、8月に手術を受けた。
化学療法も勧められたが、副作用がひどいだけで効果がないのを知っていたので、これは拒否した。
(特に大腸ガンには、化学療法の効果のないことを私は知っていたからだ。
85年に大腸ガンの手術を受けたレーガン前大統領も化学療法を受けていないことも指摘しておきたい)。
しかし、10月に十二指腸への転移が発見され、痛みもあり、胃からの食物の通過が妨げられた。
医者は手術と抗ガン剤をすすめたが、私がストレートな質問をぶつけると
「手術と抗ガン剤をやってもやらなくても1ヶ月から3ヶ月の余命だろう」と答えた。
CEAは、7.4に上昇していた。8月には3.1だった。
私は、医者の勧める手術と抗ガン剤を拒否することにした。
苦痛とそれに伴って人生をつまらなくするという犠牲を払いながら、命を延ばしてくれるわけでもないなら、受ける意味がないからだ。
そこで、私は公認、非公認のガン療法の本をたくさん読みあさった。
(ここで公認というのは、AMAが認めている療法という意味で、効果が証明されている療法という意味ではない)
その結果、10月8日にはメキシコのコントレラス博士の病院に行くことにした。
10月15日に治療開始。最初の3週間、私は日曜日を除き毎日レトリルの注射と酵素剤を投与された。
苦痛も副作用もない治療だった。
「厳格な」食事法が指示され、それは新鮮な果物と野菜を主体にし、
アルコール、カフェイン、砂糖、乳製品、肉、薫製や油で揚げた食品、貝やえびなどは全部ナシ、
さらに人工的な着色剤、香料、保存剤の入った食品、缶詰食品、調理済みの食品などもすべて禁止だった。
食べていい食品の中には、新鮮な魚や皮と脂肪を全部取り除いてから調理した鶏肉などがあった。
最初の3週間が過ぎるとレトリルの注射は週3回に減らされた。
最初の週の終わりには腫瘍の痛みは消え、食欲も戻ってきた。
3週間目の終わりに病院通いを終えるときには、それまでの「厳格な」食事に変えて「修正した」食事が指示された。
以前の食事とほとんど同じものながら、脂肪のない肉や低脂肪の乳製品もこの食事では許された。
7週間後の1980年1月5日のCEAは0!という驚くような結果になった。
1月28日のレントゲン検査では十二指腸の腫瘍は消え、ただ瘢痕だけが見えた。
D・テヴェル:1972年ガンと知った。ガンは乳房、鼠径部、胃、膵臓、肝臓に広がっていた。
しかし、20年前にひどい痔と浮腫を食事療法で自分で治した経験があり、
症状だけに対処する現代医学のやり方はダメだと思っていた。
また、乳房の全摘手術を受けた上、女性ホルモンの分泌をなくすために、健康な卵巣まで切除され、
放射線治療を繰り返し受け、結局は肺の転移ガンで死んだ友人も見てきた。
だから自分がガンになっても、こういう療法だけは受けまいと考えていた。
私は自分のガンに直面し、よくその原因を考えてみて自分がサイモントンのいう
ガンになりやすい「ガン性格」の持ち主と認めざるを得なかった。
それは、自己イメージが低く、自信が持てず、他人の賛同をいつも求めずにいられず、
潜在的な絶望感を持っていて、人を許したり悪いことを忘れたりできず、
他人と長い間いい人間関係を持てないという性格なのだった。
わたしは自分の性格とこのガン性格を対照してみれば見るほど、自分がガン性格だとわかった。
だから、私がガンに勝つにはまずサイモントンの言うように、ガン性格を改造しなければならないと思った。
同時に国際ガン勝利者の会から取り寄せた本で正しい食事で体を浄化するのが大切だと知った。
私の体はまちがった食事で有害物質を蓄積してきたのだ。
私は菜食主義者になり、動物性食品はヨーグルトを除いてすべてやめた。
加工食品、精製した食品、カフェイン、アルコール、たばこ、清涼飲料水もみなやめ、
白い小麦粉、白砂糖と、これらが原料となっているものすべてやめた。
調理で重要な酵素が破壊されるので、主に生の食べ物を食べ、大量の野菜、果物ジュースを飲み、
ビタミンB17の多いあんずの種を食べた。
これにコーヒー浣腸、ビタミン剤、膵臓酵素剤などを使った。
数ヶ月、この療法を続けると、ほとんどの症状は消えた。
ペニイ・ブローン:39才の時、乳ガンで余命3ヶ月といわれた患者で、
最後の奇跡を頼みに西ドイツの栄養療法病院のベットに瀕死の身で横たわっていた。
彼女は見舞いに来た友人のビルキントン夫人に言った。
「私がこの療法で治ったら、イギリスにもこういう病院を作りたい」-----これが、ブリストル・ガン・センター誕生のきっかけになった。
BBC放送は、ブリストル・ガン・センターの治療実績を「ブリストルの奇跡」として何度もテレビやラジオで放送しているが、
その中ではペニイの生きた実例が患者に自分のガンを治す意思を起こさせ、多くの患者を救っていると解説している。
ブリストル・ガン・センターの誕生後、英国には同種の施設が各地に生まれ、ブリストル・システムを生かして患者の治療に当たっている。
セミナーでビルキントン夫人は次のように挨拶している。
「ガンはハード・ティーチャー(厳しい教師)です。しかし、この厳しい教師は自ら学ぶ気のある患者には実に多くの事を教える。
そして、ペニイもそれを学んだからこそ、ガンになったことが一番よかったといっているのです」
ブリストルのやり方は厳しい教師からどう学び、どうこの教師を克服するかを教えるものに他ならず、
そのために食事、精神活動、人間の生き方そのものまで踏み込んだ指導をしている。
ブリストルで看護婦兼カウンセラーをしていたハーマイオニ・エリオット女史は
「ブリストル療法のスタートは、ガンの治療にも健康維持にも、患者自身が自分で自分に責任を持つという
心構えを植え付けることから始まります。これが一番大切です。」と述べています。
ケラー氏:20年前、左耳のそばに悪性黒色腫ができ、転移もおきた。
転移した黒色腫は助からないと医者に言われたが、ゲルソン博士の本などを頼りに自分でガンを克服した。
ケラー氏もブローン女子同様に自分のガンを克服した体験を生かしてジューデ・クリニック(メキシコ・ティハナ市)を創設した。
ケラー療法は食事、ビタミン剤など他の栄養療法と大差ない。
しかし、おもしろいのがO-リングテストで、このテストで患者さんそれぞれにどんな栄養物質がどれだけ必要かを確かめ、
それを患者ごとにこまかく処方するのです。
B・サイスケ:1976年、リンパ性白血病が見つかった時すでに4期、肝臓をの他に転移していた。
手術で脾臓は切除した。医者は最大でも数ヶ月の余命だと伝えた。
そして化学療法をやれば何ヶ月かは命が延ばせるかもそれないとも言った。
私はそれまでずっと健康だった。それなのに医者は「せいぜい数ヶ月の命」という。これには妻も仰天した。
ガン治療の研究が続けられてきた中で、化学療法が最上の治療法なのだろうか?
この質問に、医者は自信のある答えをできなかった。何かもっといいものがあるはずだ!
翌朝、妻は導きを求めて祈りを行った後でアメリカ中に電話し、何かいい方法がないかを尋ね続け、レトリルのことを知った。
1週間後に会った医者は、レトリルの効果の理由や多くの患者を救ってきたことを説明し、
3週間の間、毎日レトリルの注射をすることや、同時に酵素剤や特別の治療食やビタミン類などの食品補助剤を指示した。
数日で私は体調の改善を感じたが、3回目に訪ねたとき医者はもう治療してあげられない、
レトリルを使い続けるなら医師免許を剥奪する、と当局から通告されたからだといった。
そしてレトリルの使い方を教え、自分の手持ち分を売ってくれ、今後はどこから入手すればいいか教えてくれた。
次の週も私はこの療法を続け、毎日よくなるのを感じた。
以前の専門病院の医者が電話をかけてきて、なぜ化学療法を受けに病院に来ないのだと言ってきた。
あなたは命を賭けの対象にしてルーレット遊びをしているのと同じだとその医師はいい、
どうしても化学療法を受けにこいというのでついに私もそうした。
しかし受けてみると、毎日状態が悪くなり、目は焼けるようで、胃も火であぶられているみたいに感じ、
数日で体が弱ってベットから起きられなくなった。
化学療法とは、ガン細胞をやっつける以上に正常な細胞をだめにするものだ!こと「治療」は病気を殺す以前に私の方を殺すものだ!
私は耐えられずに化学療法をやめて自宅に帰り、レトリルやビタミンなどの療法に戻った。
するとすぐいい感じになった。
だが化学療法の害から回復するにはガンと闘うのと同じに時間がかかった。
その後、忠実にレトリル、酵素、ビタミンなどの自然な食品補助剤の治療を守り、3ヶ月するとスポーツもやれるようになった。
私は医学的アドバイスを意図してこの文章を書いたのではない。
ただ、最近の検査でも完全にガンとは無縁になっている私がこれまでにしてきたことを紹介しただけである。
私の体験から皆さんが新しい希望と有機を見いだされることを祈り、同時にガンという言葉が過去の歴史に消え去る日の来ることを願っている。
サイケス氏のPS
「患者の回復は、彼自身が栄養プログラムをどれだけ忠実に実行する意志があるか否かである。
中途半端はだめである。しかし、忠実に実行する人は間違いなく回復に成功するといっていい」
レベッカ:1985年3月17日、娘のレベッカが生後14ヶ月のときに始まった。
その数ヶ月前から娘は嘔吐するようになっていた。
上皮細胞腫と呼ばれる脳腫瘍で脳の基底部に小さなレモン大の腫瘍が発見されたのだった。
医者たちはこの種の腫瘍は決まって悪性のものだと言い、病理学診断の結果でもそのとおりと判明した。
病院では、翌日、手術をして腫瘍の90%を切除した。
手術後、医者は脳全体に放射線治療をし、腫瘍の部分には特に多くの放射線を照射したいとと最初言った。
しかし、私たちが放射線が脳に与えるダメージについて質問すると、それでは2才になるまでは抗ガン剤を使い、
その後に放射線治療をしましょうと方針を変えてきた。しかし、私たちはそのどっちも受けない事に決めた。
夫と私は娘の病気に有効そうな療法を発見しようと、代替療法を探し始め、いくつかの療法を試みた。
6週間から8週間おきに脳のスキャナー検査を受けていたが、1985年11月に腫瘍の再発が分かった。
翌年9月、私たちは娘を連れてネバダ州レイへ行き、V・アリソンはカセの点滴療法を3週間受けた。
この点滴は、セレニウム、ビタミンC、ミネラル類、酵素類、アミノ酸類などいろいろな酵素物質を混ぜ合わせたものだった。
しかし、アリソン博士が発見した最も重要な方法は、きわめて大量のレトリルを投与することで、
これによってレトリルが脳を保護している脳血管関門を通過して脳の中に入っていけるのだということだった。
実際、これだけの大量投与でも娘には何の副作用も起こらなかった。
博士は私たちに腫瘍は水分を吸収してふくらむか、形が変わるかもしれないと知らせた。
この治療を受けた後でまたスキャナーの検査を受けてみると、腫瘍は50%大きくなっていた。
私たちはこれは良性の腫瘍であってほしいと思った。それを確かめることはできないので、再び手術を受けることにした。
1986年10月14日、手術を受けた。
ところが、この腫瘍を検査した病理学診断は腫瘍は良性のものだという結果だった。
私たちは脳外科医とガンの専門医に、前には腫瘍は悪性だったのに今度は良性になった理由を求めてみた。
しかし、二人とも説明はできなかった。
そして医者は放射線治療を受けるようにすすめたが、しかし私たちはそれを拒否し、
1日に1錠のレトリルとその他のビタミン類、ミネラル類をとり続けた。
1988年10月現在、腫瘍の再発は全くない。
マイオ・オズウィル:発病、1972年4月、右乳房に腫瘍ができ、左乳房にも転移、通常療法は全くせず、生検のための手術だけ受けた。
通常療法でガンが治るとは思わなかったので、いっさい受けなかった。
コントレラス博士やプリンス博士の療法は、ガンと分かった同じ年の12月から始めた。
この療法を始める前に、生検後すぐに自分の判断で食べ物を生で食べたり、ビタミン類をとる療法を始めていた。
そして、再度検査を受けてみたが、ガンのもとはなくならず逆に進行しているようなので、
レトリルや酵素をとるコントレラス博士の療法を始め、コーヒー浣腸も加えてするようにした。
約3ヶ月後血液検査を受けるとガンはないという陰性の結果になったが、自分で工夫した薬草茶も追加して療法を続けた。
次の検査はまた陽性になった。その後検査は6ヶ月の間に陽性と陰性の間を何回か行ったり来たりした。
しかし、その後はずっと陰性で、私が強いストレスの中にあった時に、2,3度陽性になった。
私がコントレラス博士などの治療を始めたのは16年前、45才だった。
博士のレトリル食は悪い結果を生まず、自分がよくなったという感じを与え、急速に回復に向かった。
私はあまりふさぎ込んだり、ネガティブな気持ちにとらわれやすい人間ではない。
しかし、毎日正しいことをしているのに、最初の検査の結果が陽性と出た時には恐怖を感じたのを今も記憶している。
今はもちろん検査結果はずっと陰性で、健康状態もよく、職場でもハード・ワークをこなしている。
もう、ガンの陰すらない。
私の母親は45才のときにガンになり、手術で女性の器官を切除したが亡くなり、父親も91才だったが前立腺ガンで死んでいる。
だから、ストレスには注意し、いろいろなことに用心深くする必要があると思っている。
私は通常の療法にはとても賛成できない。なぜならば、私自身が切ったり焼かれたりはされたくないと思ったからである。
ガン患者は信念と強い決心を持ち、すべてのネガティブな考えや気持ちは追い払わないといけない。
そうすれば体自身が自然な療法にいい反応を示すようになるからだ。
また患者は化学療法などの副作用についてよく知る必要がある。
私と同じ頃に、この町でガンになった女性が他に5,6人いた。
しかし、その中で無害な療法をやったのは私だけで、現在生きているのも私だけである、
この事実は私に無害な療法が正しい療法なのだと言うことを教えてくれる。
グレース・V・アルドワース:発病は1983年1月、乳ガンで右わきの下のリンパ節にも転移があった。
乳房を全部とり、転移のあったリンパ節を切除する手術を受け、乳房再建術も受けた。
4ヶ月間にわたり、3週間おきに3種類の抗ガン剤を投与された。
抗ガン剤治療はかすみ目、寝汗、ひどい疲労、白血球数の低下、体のバランス失調、
肝臓周辺の痛み、動悸などの副作用がひどく、4ヶ月で続行不能になった。
83年7月からヒポクラテス研究所の指示するプログラムを始めた。
これは体を解毒すると共に、生食主義で野菜ジュース、かもじ草、酵素などをとれというもので、
このやり方で抗ガン剤で起きた肝臓の痛み、頭痛、かすみ目、疲れなどがなくなった。
84年春からはリビングストン療法を始めた。
リビングストン博士の「ガンの克服」に書いているような食事で、ビタミン、ミネラル、酵素、アミノ酸、いくつかの薬草、
それに自家ワクチンを使う療法である。
現在の体調は非常によく、以前よりずっとストレスもない生き方をしている。
アーサー・A・フェイボリーム:1975年12月、直腸ガンが発見され、ただちに大腸の切除術を受けるよう言われた。
体重はそれまでに89kgから62kgに減っていた。
私はそのアドバイスに従う代わりに、栄養とレトリルでガン治療をしているN・アイケン博士のところへ行った。
そして同時にメキシコの病院に入院し、コントレラス博士に診てもらうようにした。
メキシコに約4週間いて、この間に腫瘍は消えた。その後1週間ほどいて退院し、アイケン博士のクリニックには通い続けた。
私は、1日に20gのビタミンCとレトリルの注射と膵臓酵素剤をいっしょにとるというやり方をした。
この他に、しぼりたてのニンジンジュースを毎朝500CCほど飲んだ。
その後、レトリルの注射はしなくなり、500mgのレトリルの錠剤を1日に2錠飲むようにした。
しかし、この厳格なガイドに私は次第に従わなくなった。そして、1980年に腫瘍が復活してきた。
ここでは打つ手がないので、他の大病院へ行くようにと進められた。余命が6ヶ月あるかどうか疑わしいともいわれた。
私は、別のクリニックで75年にも医者に勧められたのと同じ手術を受けた。
手術した医者は、普通と違って腫瘍はどこにもきつく癒着しているようには見えなかったと言った。
私は医者にレトリルと酵素剤とビタミンCのせいに違いないと答えた。これに対して医者は何も返事をしなかった。
ありがたい!と思いながら退院した。
私は愚かにもタバコを吸い続けていた。そして1985年の健康診断で肺にガンが見つかった。
同じ年の12月、私は手術で右肺を半分失った。
今もビタミン類、ミネラル類はとり続けていて、水も浄化して使っている。アイケン博士の指示によるものである。
この人は不真面目な患者である。しかし、模範的な癌の勝利者より逆に教えられるところも多い。
それは、ガンがいったんよくなると、栄養療法の手抜きをやって再発するのは日本の患者でも実に多いからである。
リタ・サンダーランド:1976年2月、第4期のホジキン病で、同年8月には肝臓にも転移が見つかった。
発病と同時に手術はしたが、なにも切除はせず、同時に抗ガン剤治療を始め、
これを6ヶ月まで4ヶ月間やり、次いで8月に同じ治療を再開し、2ヶ月間抗ガン剤の投与を受けた。
また、抗ガン剤と並行して同年4月と5月にそれぞれ5週間、週に5日づつの放射線治療を受けた。
放射線治療により、それまで8回抜いていた肺の胸水は溜まらなくなった。
抗ガン剤治療は白血球数を1200まで低下させ、ひどい帯状疱疹を起こした。
ひどい吐き気、食欲の喪失、体重の減少がこれらの療法で起きた。
手術後の3ヶ月後、放射線療法と何回かの抗ガン剤治療を受けたあとで、初めてリビングストン博士のクリニックへ行った。
ここではBCGワクチン、食事、大量かつ多種類のビタミン類をとらせるほかに、
ビタミンB12とレバーエキスや脾臓エキスを注射で投与された。
また、自分の体から造る自家ワクチンも投与され、大量のビタミンAとCもとれと言われた。
ビタミンAは1日25万IU、ビタミンCは15gという大量だった。
同時に私は少量の抗ガン剤治療のほうも続けていたが、白血球数の低下が激しいので中止された。
しかし、8月に肝臓に転移が見つかったため
抗ガン剤が再開された。10月にはひどい帯状疱疹が出て、3週間寝込み、
その後神経の痛みに見舞われたので以後は抗ガン剤は中止され、リビングストン療法だけを続けた。
食事、ビタミン、酵素、ワクチンという療法だった。
約1年かかったが、これで背中の真ん中まで広がっていた腫瘍は次第に小さくなり、やがて超音波でも分からなくなった。
肝臓の病変も消え、私は健康を取り戻した。
ガン患者に言いたいことは、医者の言うことだけが全てと思ってはいけない。
化学療法や放射線療法をやる前に代替医療のことをよく調べよと言うことである。
また、代替医療を選択したら忠実に続けなければならない。退院後にいいかげんなことをしているようでは効果は上がらない。
自分の治療にも健康維持にも自分が責任を持つことが大切である。
ボビー・マーホルツ:発病は1980年12月、17cmの大きさの膵臓ガンが見つかった。
1981年1月、手術を受けたあとで、5つのリンパ節にも転移があり、効果的な治療法はない、
そして、確実に再発するが、その場合も治療法はない、と医師に言われた。
81年3月、サンディエゴのヒポクラテス研究所に行った。
もやしを食べ、かもじ茶をとり、ジュースを飲むといった食事を指示され、それを10週間やった。
81年7月、ティハナのゲルソン病院に行った。
菜食主義的な食事で搾り立てのジュースを1日にグラス13杯、生の子牛の肝臓のジュースなどをとらせ、
体内を解毒するためにコーヒー浣腸をやった。私は非常によくなり、84年の初めまでこれを続けた。
84年9月、CTスキャンで肝臓への転移が見つかった。
84年11月、リビングストン・クリニックへ行った。
1年ここで治療を続けたがCTスキャンで腫瘍が大きくなっていた。
リビングストン・クリニックの療法はBCGワクチン、自家ワクチン、それに多くのワクチンを使い、
完全な菜食主義的食事で、ビタミンCを大量にとらせるものだった。
86年5月、私は違う療法を始めた。ホクシイ療法でこれはいろいろな薬草の組み合わせや
ビタミン類やいくつかのホメオパシィの立場から栄養補助剤などをとらせ、厳格な食事を守らせるものだった。
しかし、完全な菜食主義的な食事でもなかった。
88年6月、CTで肝臓の腫瘍はさらに大きくなっていて、その上、左の肝臓にも新しく転移していた。
88年10月、私はコントレラス病院へ行った。
リトレル、葉酸、ビタミン類と厳格な食事というのがここの療法だが、魚や少量の鶏肉は許された。
今までのどこのクリニックでもそうだったので、私はすべての加工食品、塩、砂糖、カフェイン、赤身の肉、
精白した小麦粉で作った食品、脂肪、特に動物の脂肪はすべて避けてきた。
今までやってきたことを振り返って考えると通常療法の医者が打つ手がないと言ってくれたことは逆に私には幸運だった。
もし、そうでなければ、私は代替療法のことを知る機会はなかったからだ。
私はどの療法でもいい結果を得、どのクリニックでも大きな成果を得た。
有害な手段を使う通常より、これらの療法ははるかにいいものと信じている。
膵臓ガンは通常の療法で効果を上げるの最も難しいガンに思えるし、代替療法でも難物のガンに見える。
しかし私は8年間、いい人生を得て生きてきたし、それは前述のそれぞれのクリニックやその無害な療法から学んだところに負うと考えている。
また私は神に強い信頼を寄せ、ヴィジュアライゼーションや瞑想もしてきた。
ジューン・ブリット:59才、女性。1973年、全身の骨髄に広がる多発性骨髄細胞腫と診断された。
その時点で、この病気は手術もできないのだと教えられた。
すぐにマスタード・ガスの1種アルドステロンによる治療が始まり、その後プレドニゾン(副腎皮質ホルモン)も追加された。
しかし、1年間この治療をやっても少しもよくならず、病状は着実に悪化した。
当時、私は有害な副作用のないもっといい療法があるとは全く知らなかった。
病状の悪化に伴い家族の心配も増し、夫がアリゾナ大の骨髄の研究のことを知り、
私も奇跡を求めて同大学病院に2週間入院した。
しかし、ここで肋骨、背骨、右上腕、腰などにも病気が広がっているのが分かり、病院ではそれまで以上に有害な薬を増やした。
薬に胃が耐えられなくなると耐えられるようにするための別の薬がさらに増やされるという具合だった。
私の病気は骨が蜂の巣状になったり、血液中の異常なタンパク質によって腎臓が侵され、やがて肝臓がだめになる病気と聞かされた。
治療中に髪の毛が抜け落ち、免疫機能もひどく低下した。
そして、そのために肺の感染症にも見舞われ、肺が働くなくなり、ほとんど死にかけた。
医者は夫に抗ガン剤をこれ以上続けることは不可能で、最上の手段は痛みを止める処置をすることだけだと伝えた。
家族も悲惨だった。私は抗ガン剤などの薬とその有害な副作用で痛めつけられていた。
12才の息子が自分と二人の弟の食事を作る間も私はソファにすわってただ見ていることしかできなかった。
生きていることが悪夢そのものになり、常時食べ物を吐いていた。心も体もダメになり、ただ家族の負担になっているだけだった。
他の療法があると知ったのはこんな絶望の中でだった。だが新しい治療を受けるためには国外へ行かねばならなかった。
アメリカにはそんなクリニックはなかったからだ。
私は健康回復への旅としてジャマイカのフェアフィールド・メディカル・センターへ行った。
新しい処方は果物と野菜の搾り立てジュース、リトレルとあわせて酵素剤をとるといった体に無害なもので、
免疫力の回復のために大量のビタミンAなども与えられた。
治療を始めると1週間で体が快方に向かっているのがはっきり分かった。
保険会社にはこの治療の費用の支払いは拒否されたが、これは自費で払うに値する療法だった。
不幸にしてこの病院はすぐに閉鎖になったので、私は以後10年間定期検査と治療のためにメキシコ・ティハナ市の病院に通うことになった。
私は着実に回復し、以後、代替療法に関心を持つ人々との接触も増え、この療法のために働くことになった。
ヴァージニア・M・アンドリュース:77才。
1976年6月、乳ガンで両方の乳房を切除したが、全身の女性器官に転移していて最末期といわれた。
転移していたガンのほうは手術もされなかった。また、その他の通常の療法はいっさい受けなかった。
通常の療法のことなど全く考えない方がいい。
私がコントレラス病院に入院した時にはもう死にかけていた。
私を救った唯一のものはリトレルだった。
3週間の入院中は午前中に浣腸をし、そのあとでリトレルを注射された。これを1週間に5日づつ3週間つづけた。
病院退院後十分に回復するまでに数ヶ月の自宅療養が必要だった。
今も毎日、粉にしたあんずの核(リトレルはこれから製剤したもの)を大さじ1杯づつ取っている。健康状態はいい。
タバコもアルコールもなし、肉や白い小麦粉の食品は食べないなどの食事を守っている。
通常療法の病院はどこでも患者を切ったり焼いたりするが、彼らはガンを治してはくれないし、治そうとも思っていない。
AMAやFDAには用心しないといけない。AMAなどが抗ガン剤や放射線治療を続けさせているのはその陰で大金が動くためである。
彼女は1977年のある新聞記事のコピーをつけてきた。
この記事は映画スター、フレッド・マックマーレイのガン克服記お写真入りで報じたものである。
マックマーレイはその2年前にのどに腫瘍ができたが、
前にも紹介したレーガン前大統領の主治医、西ドイツのニイベル博士の治療を受けた。
そしてガンは影すらなくなった。
博士が指示した治療はレトリルと食事療法とビタミン類、ミネラル類などで、マックマーレイ夫人はこの記者会見で、
「しぼりたてのニンジンジュースを毎日、2年半の間飲み続けろと言われた」などと語っている。
「ガン勝利者25人の証言」という本は、当初はゲルソン食事療法についての本だと認識していましたが、
読み進めるうちに食事療法と共にレトリルの注射と錠剤が、ガンの治療には重要な要素となっていることに気づかされたのです。